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2006.03.31

子どもの作文に伏せ字! いったい何を書いたんだ?

 文章について、「自分の見たまま、感じたままを、自分の言葉で書け」というような人を、私は信用しない。
 そして、このような言いぐさが欺瞞であることを豊田正子『綴方教室』(岩波文庫)は証明している。

 『綴方教室』は、きのうの『文章読本さん江』に書かれていたので興味を感じ読んでみた(ある年代以上の人は、柳亭痴楽のつづりかた教室を思い浮かべるかもしれない)。

 この本は、戦前の小学校の作文教育で、すぐれた成果をあげた豊田正子の作文と、その先生の指導記録から構成されている。

 そして、この指導教師である大木顕一郎が掲げている作文指導方針こそ「自分で物を見、自分で判断し、自分の言葉で心から物をいう」なのである。

 たしか、澁澤龍彦さんも、『綴方教室』のことをどこかで書いていて、当時の作文指導に対する嫌悪感を書いていたと思う。
 文章とは、中身のない頭から絞り出すようにして書くものなのだ。

 この本を読むとわかるのだが、指導教師である大木は、豊田に細かいアドバイスを与え、何度も作文を書き直させる。そして、豊田の作文はみるみる上達していくのだ。

 さて、斎藤美奈子さんも書いていたが、これのどこが、「自分で物を見、自分で判断し」なのだ。
 教師の目で見、教師が判断して手を入れさせているではないか。

 そればかりか、指導教師たちは、『綴方教室』を出版する際、豊田の文を改竄までしているのだ。
 以下が、改竄した文章の一部だ。

「~きた人たちに、「おぢちゃん、………」ということです」
 かっこ内は、豊田の弟が来客に何かを尋ねているのだが、………は、教師が勝手に伏せ字にしたのだ。まあ、伏せ字にするかな、ふつうは。
 岩波文庫でこんな単語が印刷されているのは、この本くらいのものだろう。

 ………にどんな言葉が入っているかは、岩波文庫版26頁で確認していただくとするが、これだけでなく、いたるところ教師による改竄が行われていた。

 豊田正子の作文は、たしかに素直でいい文章だ。しかし、その裏には、豊田と教師の、栄光と理想と挫折というドラマが隠されていて、興味がつきない。

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2006.03.30

文章読本はネタの宝庫! 斎藤美奈子に脱帽

●文章読本界の御三家。
  谷崎潤一郎『文章読本』
  三島由紀夫『文章読本』
  清水幾太郎『論文の書き方』
●文章読本界の新御三家
  本多勝一『日本語の作文技術』
  丸谷才一『文章読本』
  井上ひさし『自家製 文章読本』

 斎藤美奈子が『文章読本さん江』(筑摩書房)で、挙げている文章読本における巨匠たちである。
 正直言って、このほとんどを読んだことがある。そして、なぜか気恥ずかしいが、かなり影響を受けている。
 「文章は短く」「やたらと『が』で文章をつなぐな」など、日ごろ強迫観念のようにしみついた文章禁忌は、これらの本から得たものだということに改めて気がついた。

 本書は、この2~3年読んだ本のうち、もっとも面白かった本のひとつである。
 そして、文章読本を読むよりも、文章の勉強になった。

 著者はあの手この手を使って、古今の文章読本のたぐいを愉快に解体してみせる。
 その手並みや見事。「文章読本の挨拶文比べ」に爆笑し、「文章読本を読むほど自分の文章読本を書きたくなるメカニズム」に得心した。
 次の文は明治期の小学生向け書簡文例集の一例。
 「大酔ノ上貴殿へ失礼致シ申シ訳ナキ次第…(こないだは大酔っ払いをこいて、貴殿に失礼をしてしまい…」
 小学生に酔っぱらいの挨拶文を教えてどうする!

 自ら、文章読本を殊勝に読んでいる時期があった、と著者がいっているように、売文業者なら、一度は文章読本の呪縛にかかったことがあるのではあるまいか(この文章長すぎた)。

 この本を読んで、改めて、昔読んだ御三家や新御三家の文章読本を読み返したくなった。
 今度は文章の勉強のためではなく、斎藤流の読み方で文章読本の「面白さ」を味わうために。

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2006.03.29

正気に戻ればただの人。 人気者の秘密とは?

 『ドン・キホーテ』のセルバンテスに「ガラスの学士」という短編(岩波文庫『セルバンテス短編集』所収)がある。
 主人公は自分の体がガラスになったと思いこんでいる学士。
 ところがこの狂人は、なぜか人気があり、いつも取り巻きがついている。
 そして、取り巻きのあらゆる質問に、気の利いたピリカラ毒舌で答えてみせるのである。
 現代でいえば、ビートたけしのような人なのだ(少し違うかなあ)。

 思うに、ビートたけしから「狂」の部分を取り去ってしまったらただの人になってしまうだろう。
 ときおりのぞかせる、たけしさんの生真面目な一面からは、正気なたけしの片鱗がうかがえる。
 ビートたけしは、やはり「狂」の人でなければならない。

 『論語』子路篇には、「中行を得てこれに与(くみ)せずんば、必ずや狂狷(きょうけん)か」の言葉がある。
 付き合うなら中庸の人がいいが、それが見つからなければ次善の策として「狂」の人と付き合うのがいい、というのである。
 ここでいう「狂」の人とは、進取の精神で、とりつかれたように前に進もうとするが、手足がついていかない者のことだという(呉智英『現代人の論語』)。
 つまり、もの狂おしく、常に前に突き進もうと必死になっている者の姿が思い浮かぶ。
 私にとっての、ビートたけしとは、このような人だ。

 全然、話がそれてしまった。
 セルバンテス「ガラスの学士」の主人公も、狂気が治ったとたん、ただの人になり、それでもついてくる取り巻きから逃れようと戦士への道を選ぶのである。

 それにしても、体がガラスになってしまうという着想、やはりセルバンテスはただ者ではない。

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2006.03.28

おねえちゃん、これ見てごらん! ギリシアにもいたセクハラ男

 新年会に花見に新入社員歓迎会。宴会になると必ずいるのが、突然脱ぎ出す男たち。女性社員をキャーキャーいわせて喜んでいるのだ。
 彼女たちは別に男の裸を見て恥ずかしがっているわけではない。こんな男が上司や同僚なのを嘆いているだけだ。たわけ者どもめが。
 私にも会社員の時代があったけれど、絶対こんな愚かなまねはしなかった。と思う、たぶん、覚えてないけど。

 そんなことはさておき、こういう連中が屈折してくると、次には公道で、女性が歩いている前に突然飛びだしたりする。自分のコートの前をはだけ、女性を驚かせて喜んでいるのだ。
 彼女が驚いているのは、男のものを見たからではない。こんなアホがそのへんをぶらついていることに対してだ。嘆かわしい。

 こうした愚か者が、古代ギリシアにもいたのだということを、テオプラストスの『人さまざま』(岩波文庫)で知った。
 この本は、アリストテレスの弟子テオプラストスが、「恥知らず」「けち」「お節介」などのいろいろな人物像を、例をあげて、面白おかしく描写している。
 古代ギリシャ人も現代の日本人も、たいして変わりはないものだ。

 例の人物は「いやがらせ」という項目に入っていて、「淑女に出逢うと、自分の外衣をまくしあげて、隠しどころを見せびらかす」露骨で不作法な男として描かれている。一種のセクハラですな。
 今も昔も、男というのは変な生き物である。

 どうでもいいが、この本の翻訳者の名前は森進一となっていた。ちょっと気になる。

 この本で、あと面白かったのは、「頓馬(とんま)」の項で、「自分の恋人が病気で熱を出しているときに、彼女の前でセレナーデ(恋の唄)をうたう」男だ。
 ちょっとしたギャグになっている。

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2006.03.27

クアトルツメラルンプールってどこのこと? 校正恐るべし!

 毎度、誤植が多くて自分でも嫌になる。でも、いまはまだいい。打ち間違えたとか、変換ミスだとか言い訳できるから。
 手書き原稿のころはこうはいかなかった。自分の手で書いているんだもの、言い訳はできない。無学がすぐバレてしまうのだ。

 倉阪鬼一郎の『活字狂想曲』(幻冬舎文庫)は、怪奇小説作家である著者が、印刷所で校正の仕事をしていたころの実録である。

 「クアララルンプール」と「ラ」の字が1つ多いので「トルツメ」と赤字を入れたところ、「クアトルツメラルンプール」と打たれてきたこと。
 「百メーター走るごとに」の「メーター」を「メートル」に直す指定をしたら「百メー走るごとに」になってしまったこと(業界の方ならおわかりですね)など、抱腹絶倒のエピソードが満載だ。

(おっと、今、あやうく「倉阪」を「倉坂」と誤植しそうになった)

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2006.03.26

見殺しにする子はどっち? 母親に迫られた究極の選択!

 映画『ソフィーの選択』では、母親がナチスの将校に選択を迫られる。2人いる子のどちらか1人は助ける。助けたいのは、どっち? 
 極上のラーメンと至上のチャーハン、選ぶのはどっち、というような生やさしい問題ではない。
 子どもたちの目の前で、どちらか1人を選ばなければ、3人とも助からないのだ。
 まさに究極の選択である。

 これと似た話が、鎌倉時代の説話を集めた『沙石集(しゃせきしゅう)』(岩波文庫)にある。
 こちらも母1人に子2人の話だが、設定は少し違う。
 ある日2人の子どもが出かけている間に、母が隣人にはずかしめを受ける。それを知った子どもたちは隣人を殺害してしまった。
 逮捕された兄弟は、互いに相手をかばい、自分1人の犯行だといって譲らない。母は母で、実行犯は自分であると主張する。
 さて、お上の決定は、母は助ける、子どものうち1人を誅すというものだった。助けたいのは、どっち?
 しかし、母親は意外とあっさり兄のほうを助ける。理由は、兄は継子で、弟は実子だったからだ。前夫から、兄をわが子のように育ててくれ、と頼まれたからだという。
 その母の心根が認められて、3人とも助かる、という話。

 さて、2つの究極の選択、あなたの好みは、どっち?

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2006.03.25

冷たくなった男の鼻を…?! 新聞読者はスプラッター好き!

 伊藤整の『日本文壇史』(講談社文芸文庫)を、2~3年前から少しずつ読んでいる。大文豪だと思っていた作家たちの意外に青臭くてカッコ悪い青春群像を知るにつれ、彼らが身近な存在になってくる。

 この『日本文壇史』の1巻目第五章には、明治初期、日刊新聞が普及し始めたころのマスコミの状況が書かれている。
 明治10年、西郷隆盛の「西南の役」が起こる。各紙は戦況を競って報じた。しかし、「朝野新聞」の社長成島柳北(なるしまりゅうほく)だけはあまり戦況を伝えなかったので、「流血記事の好きな一般読者には喜ばれなかった」と、伊藤は記している。
 庶民が三面記事的血みどろスプラッターものが大好きなのは、今に始まったことではないのだ。

 それを証拠づけるように、このころ、猟奇事件などをカラー図版で伝える「新聞錦絵」が大流行した。今でいえば、ゴシップ週刊誌や『フライデー』のようなものだろう。
 「冷たくなった男の鼻をそぐ」女の話や、離縁された男が「妻を串刺す」話が、極彩色の錦絵でリアルに描かれている。
 「新聞錦絵」に関しては、高橋克彦の『新聞錦絵の世界』(角川文庫)に詳しい。

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2006.03.24

50年目の夫婦の再会! これは胸にくる実話だ。

 森鴎外の『じいさんばあさん』という掌編は、夫のちょっとした過ちのために37年間生き別れた夫婦が、老境に入って再会し、仲むつまじく暮らすという話だ。
 例によって、鴎外は簡潔な抑えのきいた筆で、淡々と話を進めるのだが、それがかえって胸に迫ってくる。

 だが、この『じいさんばあさん』をしのぐ実話が、現代にもあったことを知った。
 それが、蜂谷弥三郎『クラウディア最後の手紙』(メディアファクトリー)だ。
 蜂谷氏は、大戦末期、あらぬ疑いをかけられてソ連に抑留され、結婚したばかりの妻と引き離された。
 夫婦が再会するのはなんと50年後の1997年。実は、蜂谷氏は、妻に再会するために、もう一人の大切な人との別れを選択しなければならなかった……。
 言語を絶する壮絶な愛と別れの物語である(ちょっと月並みな締めだったか)。
 つけたりながら、この本を読んだあと、目が腫れてしまって、人に会うことができませんでした。

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2006.03.23

アダムとイブの永遠の秘密!

 聖書によれば、アダムとイブは神によってつくりだされた、すべての人類の祖先である。
 しかし、よく考えてみればおかしくないか? たしかにアダムとイブは子どもをつくれたろう。しかし、その子どもたちはどうやって子どもをつくるのだ? もし子どもをつくるとしたら、親と子供? 兄弟姉妹? その組み合わせ以外にない! それって「近○相○」じゃないの?!
 これは、以前から疑問になっていた聖書の矛盾点なのだが、やはり、それを書いた本はあった。

 それが『百科全書』の編集者として知られるディドロの『ブーガンヴィル航海記補遺』(岩波文庫)である。
 これは、ブーガンヴィルという軍人が書いた『世界周航記』という本の批評で、タヒチ人と従軍牧師のやりとりが面白く描かれている。
 特に性習俗に関して、自分の国では近親相姦など認めていないと主張する牧師に対し、タヒチ人は、アダムとイブの話を引き合いにだし、冒頭のような矛盾を突いている。

 昔から、同じような矛盾を感じた人は多かったのだろうが、あまり本に書かれているのは見かけない。
 もしかして、これは聖書の最大のタブー?!

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2006.03.22

全裸で見合いが義務?! これぞユートピアの真骨頂!

 トマス・モアの『ユートピア』(岩波文庫)では、男女は見合いするときに全裸になって、相手にすべてを見せるのが習慣づけられている。
 これは、結婚する前に、相手の体に不満な点がないかどうか確認するためであるという。
 これだけを見ると、ユートピアとは、性に寛容な場所であるようかのように思える。
 しかし、実は、結婚前の性交は禁止、不倫など論外、もし、この掟を一度でも破ったら二度と結婚は許されないのである。
 ユートピアとは、私たちが思い描いているようなものとは少し違うということが思い知らされる。

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2006.03.21

あれっ、銭湯に人の手首が! 幕末の江戸には仰天事件がいっぱい。

 こんな仰天ニュースがてんこ盛りなのが岩波文庫の『幕末百話』だ。
 明治の半ば、新聞記者の篠田鉱造が、古老の話を聞いて新聞に連載した実話集である。
 幕末といえば、日本はかつてなかったほどの大動乱期。ふつうの歴史書では知り得ない三面記事的な実話の山から、当時の世相が生き生きと浮かび上がってくる。

 この『幕末百話』のトップで紹介されているのが、生涯に81人を斬ったという、人斬り岡部の話だ。
 この男、銭湯によく行くのだが、いつも湯銭を払わない。たまりかねた銭湯のおかみが、払うよう要求したところ、岡部はそれを逆恨みして仕返ししようとする。
 で、岡部が思いついたのは、刑場から死体を掘り出し、その手首だけ切り取って、銭湯の湯に投げ込むというものだった。
 案の定、銭湯では大騒ぎになり、一時さびれてしまったという。
 それにしても、81人も斬った人間の発想はよくわからない。

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2006.03.20

四十、五十になってダメなら、もうダメ。

 こんなキツイことをいっているのは、もちろん、あの孔子様だ。
 ちょうど、今の私はこの年代に当てはまっている。孔子様から「お前のことだよ、お前の」といわれているような気がする。
 確かに、四十、五十といえば、働き盛りの円熟期だ。この年代で名前が通っていないなら、もう一生ダメということだろう(もちろん、そうでない人もいますよ)。
 幸いなことに、まだ、猶予期間はだいぶ残っている。この言葉を胸に、今年も刻苦勉励いたします。

 出典は『論語』子罕(しかん)篇。
「子曰わく、後生畏(おそ)るべし。焉(いずく)んぞ来者の今に如かざるを知らんや。四十五十にして聞こゆること無くんば、斯(こ)れ亦(ま)た畏るるに足らざるのみ」(岩波文庫版『論語』)

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2006.03.19

鼻から入って脳を食う虫ってなんだ!

 昨日に引き続き『徒然草』からの引用だ。第百四十九段から。
 鼻から入って脳を食ってしまう恐ろしい虫のことが書いてある。なんでも、「鹿茸(ろくじょう)」という薬に、鼻をつけて匂いをかぐと、小さい虫が鼻から入り、脳を食ってしまうというのだ。
 こんなトンデモない話を、何気なく書いているところがなんともいえず面白い。

「鹿茸を鼻にあてて嗅ぐべからず、小さき虫ありて、鼻より入りて、脳を食(は)むといへり」

 「鹿茸」とは、
「夏至の頃、鹿の角が落ちると、そのあとからすぐ生える新しい角をいう。「袋角(ふくろづの)」ともいい、取って乾燥させて、強壮剤その他の薬用に供する。」(新潮日本古典集成『徒然草』より)
 とのことだ。

 この話は澁澤龍彦さんの本で知り、それ以来、『徒然草』は愛読書になった。

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2006.03.18

『徒然草』は、想像以上に面白い話の宝庫だ。

『徒然草』を、ただの堅苦しい人生訓ばかりでてくる本だと思ったら大間違いだ。面白い話の宝庫なのである。
 たとえば、第四十段の話はこうだ。
 因幡の国(今の鳥取県)の、ある娘はたいへん美人なので、多くの男が求婚した。しかし、親はどうしても許さなかった。
 なぜか?
 この娘は米、麦などの穀類を食べず、栗しか食べなかったからだ。
「かかる異様の者、人に見ゆべきにあらず(このような変わり者は嫁ぐべきではない)」
 前代未聞の理由である。
 『徒然草』を読むときのひとつの楽しみは、このように変な話を探すことだ。

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2006.03.17

『広辞苑(第二版)』の最後の見出し語は傑作だ。

 私はものを書くのが仕事なので、辞書はよく使う。
 辞書といえば定番中の定番は『広辞苑』だが、重いので、ふだんは小型の『岩波国語辞典』を使っている。
 ところで、たまに『広辞苑』をめくっていると面白い発見をすることがある。
 たとえば、私が持っているのは第二版だが、最後の見出し語をご存知だろうか(三版以降は違う可能性あり)。
 実は「んとす」となっている。問題はその例文だ。
 これを見つけたときは、少し感動した。著者のちょっとした洒落っけなのだろうが。

「んとす(ムトスの転)…しようとする。「終りな-」」

 では、今日の日記は、これで…んとす。

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