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2006.04.27

文学上の刺客に会うのは文学者の宿命のようなもの

 昭和45年に三島由紀夫が割腹自殺したとき、私はまだ15歳の高校生だった。それまで、三島文学など読んだことのなかった私が、三島由紀夫にのめり込むきっかけになった事件だった。

 昭和55年に、ジョン・レノンが射殺されたとき、私は出版社の社員として働いていた。頼れる人間がひとりいなくなった気がした。

 1970年と1980年に出合った、このふたつの死は、私の記憶に深く刻まれている。
 三島由紀夫享年45歳、ジョン・レノン享年40歳。
 いつのまにか、自分が彼らよりも長生きしているのを、ときどき不思議に感じる。

 手元にある三島由紀夫の『太陽と鉄』(講談社文庫)は、発行が昭和46年になっている。事件からそうたっていない時期だ。
 いま、改めて目を通してみると、なぜか「若いな」という印象を受ける。
 もちろん、才気あふれる文体は、昔読んだときと変わらず魅力がある。しかし、「若い」と感じるのは、やはり、こちらが年をとった分、40そこそこの三島の稚気が感じとれるからだろう。

 併載されている「私の遍歴時代」に、三島が太宰治に会って、「僕は太宰さんの文学はきらいなんです」といったときの場面がでてくる。
 そして、自分があのときの太宰と同年輩となった今、自分も何度か、人に「あなたの文学はきらいです」といわれた体験をし、太宰のあのときの気持ちが察しがつく、と記している。
 「こういう文学上の刺客に会うのは文学者の宿命のようなものだ」と。

 とても、太宰や三島の文才に及ぶべくもないが、私も、人から、「君の文章はきらいだ」と何度かいわれるほどには経験を積んできた。
 だから、ちょっとだけ、太宰や三島の気持ちは察しがつく。

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