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2006.05.31

何だ、そのざまは? まるで乞食じゃねえか!

 何年か前のこと、ある知り合いから急に電話がきた。急ぎで話したいことがあるからきてくれないかというのだった。
 彼は、私がフリーライターになるきっかけをつくってくれた恩人のひとりであった。
 そういう人間からの電話だ。夜分だったが、彼の家に向かった。

 訪ねてみると、彼はすでに酔っているようだった。まともに立てないようでもあった。
 尋常な様子ではなかった。
 彼は、私に酒を勧めながら、私が駆け出しのころ、いかに仕事ができなかったかを話し始めた。「いっちゃー悪いんだけど、……」そればかり何度も繰り返した。彼が私のことをそのような目で見ていたとは知らなかった。

 俺はいま、仕事をひとつ始めようとしている。あんたに、その仕事ができる力があるかどうか、確かめたいのだ、という。
 確かめるも何も、そんな仕事受けるとも受けないとも、こちらはいっていない。いまそんな時間もない。

 話を聞いてみると、新しくつくる業界誌の使いっ走りのような仕事だった。私でなくてもできる人間はいくらもいる。
 彼にはすでに恩は返したつもりだった。
 この仕事をやれば、月○○万円入るんだ、という彼を残して辞去した。
 あのときの彼の、亡者のような顔が忘れられない。寂しい別れだった。

 『ゴーリキー短編集』(岩波書店)の2番目に読んだのは、「チェルカッシュ」。
 親分肌の泥棒チェルカッシュと、純朴な百姓の青年の話。金がなかった青年は、チェルカッシュの泥棒の片棒を担がされてしまい、現金を見たとたん目がくらんだ。

 チェルカッシュにすがりついて叫ぶ。
「親方! ……わしにその金をおくんなさい! お願いだから、それをわしに呉れておくんな! そんな金、お前さんに、何でもねえじゃねえですか!」
 金は欲しいが、魂まで乞食にはなりたくない。

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2006.05.29

いのちは忽ちにをはる そは得ることかうしなふことか

 アルバム『ジョンの魂』の曲の歌詞は、ジョン・レノンが俳句に影響を受けてつくったものであるという。
 正直言って「?」なものだった。
 外人が日本の影響を受けてつくったというものには、往々にして日本人から見て見当違いなものが多い。

 イエーツ『鷹の井戸』(角川文庫)は、そのなかでも成功しているもののひとつか。
 能の影響で書いたという戯曲「鷹の井戸」は、永遠という時間を封じ込めてある点で、能に近づいていると感じた。
 いつかわからないときに、一瞬だけ永遠の生命を得られる水がわき出るという枯れ井戸。水が湧く一瞬を待つ老人。
 シンプルな道具立てもほほえましい。

 補足情報として、この本の訳者、松村みね子とは、芥川龍之介の幻の恋人といわれている、歌人・片山廣子のペンネームである。

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2006.05.27

不況は会議場で起こっているんじゃない。現場で起こってるんだ!

 ある時、テレビを見ていて、ふと涙が止まらなくなったことがあった。
 借金を抱えたバツイチで、子どもを抱えながら、水商売のバイトをしている女性を紹介した番組だった。都内には、このような女性のための24時間託児所がある。
 ようやく夜中に仕事が終えて、もう眠ってしまった子どもとご対面。
 そのシーンで、思わず落涙してしまった。
 自分も、そのころ借金苦だったことや、病気が少し悪化していたせいもあって、涙もろくなっていたのかもしれない。だが、そのときの母子の姿に、とてもささやかな幸せが感じられて胸が熱くなったのだ。

 現在、母親と子どもの関係や、女性の雇用に関して、いろいろな問題があげられている。
 子どもの虐待、少年事件、結婚より職場を選ぶ女性と女性の晩婚化、少子化社会、などなど。
 こうした問題は、ともすれば、今時の母親はとか、いまの若い子はとかいう短絡的なまとめられ方をしてしまう。

 しかし、昔の女性に比べて、現在の母親たちや、仕事を持つ女性たちがだめになっているわけではない。
 変化しているのは、家族のありかたや、職場の環境のほうで、それに対応できていないのが問題なのだ。

 阿古真理『ルポ「まる子世代」』(集英社文庫)は、ちょうど現在社会をになっている1964~69年生まれの女性をとりまく環境が、どう変化してきたかを追った執念のルポである。著者はこの世代の女性を、さくらももこの漫画『ちびまる子ちゃん』からとって「まるこ世代」と名付けた。

 本書で目を開かされたのは、事務職を長くやっている女性のほうが、男性社員や、天下り経営陣より、いまや、会社の経営を客観的に見られる貴重な存在になっているということだ。
 現場の数字を把握している彼女たちのほうが、会社で起こっている事態を冷静につかむことができている。
 その声を聞こうとしない上司や経営陣、会社のシステムは、やはりダメなのだ。

 また、専業主婦の家事が、昔より負担が増加したということもなるほどとうなずけた。
 昔より明るくなった家の中は頻繁な掃除を要求する。選択肢の増えた食生活で、毎日、違う献立を考えなければならない、など、生活の電化や豊かな食生活によって、主婦の負担が増えてもいるのだ。

 母親がずっと子どもについていてあげなければならない、という神話と、母親のストレス、などなど。
 「まる子世代」の視線で、社会を見通してみると、この何十年かで起こった職場環境や家庭環境の変化に気づかないできたことこそ、先ほどあげたような問題群の盲点であったことが明らかになっていく。

 本書は、これまで雑誌などで「プロジェクトXに涙する中高年」や、「自転車通勤」など、ユニークかつ鋭い視点から現代社会の諸相を切り取ってきた著者の集大成ともいえる力作だ。
 私も、この本から、今後の仕事に関するヒントをいくつかもらった。

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2006.05.26

山よ、悪魔が棲むと人のいう……

子どものころ、家の近くには、林がたくさんあり、よく遊び場としていたものだ。
 仲間たちといっしょにいるときはいいが、ふとはぐれて一人きりになったとき、林は寂しく恐ろしい場所に変身した。いかにも神隠しが起こりそうな……。

 柳田国男がよく書いているように、昔の人が森林に神や魔物が棲むと考えていたのが理解できる。いま、思えば、遊んでいるうちにもしっかり民俗学していたのである。

 今日読んだのは『ゴーリキー短編集』(岩波文庫)のなかの「イゼルギリ婆さん」。この本に収められているのは、ゴーリキーが放浪生活のなかで生みだした作品たちであるという。
 ロシアの、日本のものとはひと味違う暗い森林の中で起こった奇跡の話。いやというほどロシア文学らしい陰鬱な物語だ。でも好き。

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2006.05.25

アナタガタハ、カチクイカネ

 沼正三『家畜人ヤプー』は、日本人の子孫が、白人に奴隷のように扱われるというSFともSMともつかない怪作である。

 しかし、このように人間以下の扱いを、実際に白人(イギリス人)に受けた体験を書いたのが、会田雄次『アーロン収容所』(中公新書)である。
 ビルマで終戦を迎えた日本兵たちは、捕虜としてイギリス軍の監視下に置かれた。そのひとつが「アーロン収容所」だ。
 イギリス兵は、日本人を人間とは見ていなかった。日本人に、便所の用足しを見られようが、イギリス女性兵が裸を見られようが、彼らは平気である。日本人を人間とは思っていないからだ。家畜に見られても恥ずかしくないのと同じだ。

 日本人は、ほんとうにお人好しな民族ではないかと思うことがよくある。戦中戦後にも、ビルマやインドネシアのように日本に好意を抱いてくれていた国は多い。なかには、いつ、またイギリスと闘ってくれるのかと尋ねるビルマ人も大勢いたという。
 ビルマ人も、イギリス人には人間扱いされていなかった。白人に対する恨みや恐れは日本人に対するものより強いのだ。
 それにもかかわらず、多くのお人好し日本人は、日本がひたすら悪いことしかしてこなかったと思いこまされている。

 だいぶ、話がそれてしまったような気がする。
 『アーロン収容所』は、日本がお手本にしてきた西欧人の、あるひとつの面をみせてくれる本である。彼らがムキになって捕鯨禁止を叫んだり、日本人が活躍するオリンピック競技のルールを、平気で日本選手に不利なように改定する理由も、わかってくるような気がする。

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2006.05.24

同じ河に二度とは入り得ぬ

 地球にやさしいとか、環境にやさしい、などという言葉には、何か胡散臭さを感じる。
 人間の排出する二酸化炭素が温暖化を引き起こしている、というのもひとつの説であって、因果関係がはっきり証明されたわけではない。

 いつか、ある先生に見せてもらったデータでは、二酸化炭素が増加しているから温度が上がっているのではなく、「温度が先に上がっていて、それにつられて二酸化炭素が増え」ていた。

 つまり、地球というのは、二酸化炭素の量などにかかわりなく、なぜか温度が上がったり、下がったりするものである。そして、温度が上がったから海中の二酸化炭素が大気に放出されて、二酸化炭素の濃度が高くなっている、と考えられるのだ。二酸化炭素の最大の排出元は、海水なのである。
 データを信じる限りそちらのほうが正しいようです。
 地球の温暖化などの複雑な作用について、まだ、未知の部分が多すぎるのだ。

 だからといって、別に私は、二酸化炭素の排出量規制に反対しているわけではないですよ。
 東京の空気をもっときれいにして欲しいと、常々思ってます。

 それから、まだ、ダイオキシンで男の精子が減っているなどという珍説を信じている人が多いらしい。
 詳細は日垣隆『「買ってはいけない」は嘘である』(文芸春秋)に書いてありますが、精子が減っている、の根拠として必ず引き合いにだされるスキャケベク教授のデータは、ほとんど当てにならないしろものだ。
 そもそも、精子の正確な数え方など、やっと最近になって確立されてきたばかりだ。
 何千万だか何億だかあるものを、顕微鏡で数えるのがたいへんであろうことは、少し考えただけでわかる。

 環境の話は、なぜか、だれでも、「そうだろうなあ」と感じてしまいやすく、いい加減な話でも常識として定着してしまいやすいようだ。
 あ、私は別に環境保護に反対しているわけではないですから。
 無用に、人々を心配させるような説を、よく確かめもせずに垂れ流すのが許せないだけです。

 今日、読んだのは斉藤忍随『知者たちの言葉』(岩波新書)。
 あまり関係ない話になってしまった。
「同じ河に二度とは入り得ぬ」は、この本で取り上げられていたギリシャの哲人ヘラクレイトスの言葉。

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2006.05.23

恋愛は人間の迷執なり

 今の世の中、何かにつけ恋愛至上主義である。
 映画もテレビドラマも小説も漫画も流行歌も芸能ゴシップも、ほとんどが恋愛がらみだ。

「恋愛は破壊をつかさどるものである」の一文に始まる「プラクリチ」は、きのうの幸田露伴『連環記』(岩波文庫)に併載されていた短編である。
 釈迦は、恋愛は人間の最大の迷執である、と色恋沙汰をしりぞけた。
 本来、仏門にあるものにとっては、恋愛は御法度だった。その意味でいえば、いまの日本の仏教は堕落しているともいえる。

 いちおう、仏教徒であるなら、「愛こそがすべて」とか「愛が地球を救う」というような自堕落な標語は、口にするのもはばからなければならないのだ。
 まあ、そこまでいかなくても、愛など、一度も平和の役に立ったことがないのは明々白々の事実だが。
 マザー・テレサがいかに愛を説いても、金正日の根性は変えることができないだろう。
 恋愛が楽しいということと、愛が正しいということは別問題なのだ。

 それにしても、並の小説なら、単に男女の目が合ったというだけのことを「四眼相視て、両情互映した」と書く露伴は、やはりただ者ではない。

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2006.05.22

悲しさのあまり、死人の口吸いたるに

 父親の葬儀のときのことだった。私は喪主として、いちばん前の席にいた。葬儀屋のつくった、故人の思い出ビデオみたいなものが流れて、会場が少ししんみりしたときである。突然、ビデオが中止され、会場が明るくなった。

 何事が起きたのか、わからなかった。葬儀屋の係員が駆けつけてきて、住職が呼んでいるという。
 行ってみると、会場のイスの並べ方が気に入らないというのだった。一般的には、遺族・親族の席は、祭壇に対して横向きに並んでいる。それを正面に向けろという。着席していた来賓にもいったん立ってもらい、イスを並べ直した。

 はじめての喪主で、ひたすら無難に終わればいいとの願いは、はなからうち砕かれた。
 この坊さん、迎えに行くと、1分早く行っても遅くなっても許さない。斎場では、遺族全員で出迎えないと気にくわない。まるで腫れ物をさわるように気を遣わなければならなかった。

 このとき思ったが、遺族って、こういうとき、いちばん癒されなければならない人間だろう。遺族にこんなに気を遣わせてどうする。

 書いているうちに腹が立ってきた。気分を変えよう。
 今日の一冊は幸田露伴『連環記』(岩波文庫)。露伴最後の作品だという。
 名僧たちの、心が洗われるようなエピソードで綴られた中編である。
 なかでも、恋しい女が死んで、埋葬するのも惜しみ、何日か経た後、口を吸ったら「あさましき香」がして、執着を断った、という寂照のエピソードが面白い(心が洗われる話ではないが)。
 寂照(大江定基)は、これがきっかけで出家することになる。

 俗物と、名のある僧侶は違うものだと思った。

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2006.05.21

絵は口ほどにものをいう

 人に、テキスト系とビジュアル系があるとしたら、私はテキスト系であるに違いない。あ、ビジュアル系ってIZAM(古い?)とかGLAYとかラルクアンドシェルとかじゃないですよ。
 ものを見るときに、テキストを読むのが先行するか、絵を見るのが先行するかっていうことです。

 たとえば、私は、美術館で、まず、解説文に目がいってしまい、それを読んでから絵を観る。
 美術書を観ても、文を読んでから絵を観るほうだ。
 だから、たぶん、ビジュアル的な感性は、文章に対するほど強くないのだろう。

 五味文彦『中世のことばと絵』(中公新書)は、テキスト系である著者が、中世の絵巻を読み解きながら、作者を推理していく過程が記されていて、非常に面白かった。
 何かの専門家が、畑違いの分野に挑戦すると、意外な発見をするものなのかもしれない。

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2006.05.16

種もしかけも、ありあり。

 これまで何冊かいろいろなノウハウ本を書いてきた。どんな種類のノウハウ本でも、鉄則となるのは、肝心なことは明かさない、ということだ。
 素人でも、読めば、ある程度はできるようになるが、肝心要の部分は知ることができない。

 武道の世界でも同じだ。日本の武術では、巻物などで、その流派の技を目録として残してきた。世界でも日本の武術にしかない文化である。
 しかし、巻物には書いていないが、師から直接教わる「口伝」というものがあるのだ。
 今の日本からは、このような「口伝」で伝えられるような文化が急速に失われている気がする。

 泡坂妻夫『大江戸奇術考』(平凡社新書)。
 江戸時代から、手品の種明かし本はずいぶんあったのには驚いた。

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2006.05.08

つとめはげめば、思いのほか功をなすことあり

 朝食が終わって、本棚の前に立つ。今日はどの本を選ぼうか。一日のうちでもっとも楽しい一ときである。

 本居宣長『うひ山ふみ・鈴屋答問録』(岩波文庫)。
 「うひ山ふみ」は、宣長晩年のとき、初学者のために書いた学問の心得である。

「詮ずるところ学問は、たゞ年月長く倦(うま)ずおこたらずして、はげみつとむることぞ肝要にて、学びやうは、いかやうにてもよかるべく~」
 学び方はどうでもいいから、あくことなく、長く続けよとおっしゃる。

「又晩学の人も、つとめはげめば、思いの外功をなすことあり」
 おお、いまからでも、遅くはないのですね。

「されば才のともしきや、学ぶ事の晩(おそ)きや、暇(いとま)のなきやによりて、思いくづをれて、止(やむ)ることなかれ」

 私が、日記を続けられるのは、宣長先生のこれらの言葉があるからである。

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2006.05.05

アイドルも楽じゃない。命あってのものだねだ。

 昔からアイドルには目がない。妻には怒られるが、アイドルが持っている「はかなさ」みたいなものが好きだ。その「はかなさ」は、男には絶対体験できないものだから。などと、いろいろ理屈を並べては、妻を懐柔する。

 などという話になったのは、この2日ほど読んできたフローベール『三つの物語』(岩波文庫)の最後のひとつ「ヘロヂアス」を読んだからだ。
 いわゆる「サロメ」と同じ話で、蠱惑的なサロメの求めに応じて、預言者ヨカナンの首がはねられる。
 ヨカナンには、熱狂的なファンがたくさんいた。その死によって、人気はさらに高まる。そしてひとつの伝説になる。
 ああ、これってアイドルなんだな。キリスト教の預言者ってアイドルなんだよ。
 アイドルは、ふつうの大人になっていくか、早死にして永遠のアイドルになるしかない。
 などと、全然筋違いなことを考えながら読んでいたのであった。

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2006.05.02

善人なをもて往生をとぐ、いはんや助平をや

 知り合いの女性に聞いた話だが、彼女が、入院していたおじいさんを見舞いに行くと、さっと、おじいさんが何かをベッドの下に隠した。おじいさんが手洗いに立ったすきに、布団をはがしてみると、若者が読むようなH本が隠してあったという。

 かわいらしいじいちゃんだと、彼女は笑っていた。
 でも、どんなにいいおじいちゃんだとしても、きっと死んだあと話題になるのは、このH本の話だろう。
 じいちゃんは、自分の善良な人生を、1冊のH本と引き替えにしてしまったのだ。みんなに愉快な記憶だけを残して。

 あぶないあぶない。蔵書管理はきちんとしなければ。ろくな本を持っていないものな。

 今日は、きのうのフローベール『三つの物語』(岩波文庫)のなかから「聖ジュリヤン傳」を読んだ。
 動物の殺生にとりつかれたジュリヤンが父母殺しを犯し、最後は神に召される、という伝説をもとに書かれた物語。
 犯した罪が大きいほど救われる。
 信仰の奥深さを感じさせられる話だ。

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2006.05.01

ボッチャン!ココロエマシタ! マリサン、コンニチワ!

 子どものころ、一時期、祖父が知り合いから借りてきた九官鳥を飼っていた。すぐに私の名前を覚えて、大声で私の名前を呼ぶようになった。
 かわいいヤツだった。
 九官鳥は、その後、また誰かに貸し出され(ペットの貸し借りもどうかと思うが)、その家で、夏のある日、九官鳥も暑いだろうとクーラーの前に置かれ、凍え死んでしまったという。

 何事も人間の尺度ではかっては、いけないということだろう。
 話は飛ぶけど、欧米では、クジラやゾウの保護運動が盛んだが、どういう動物が保護運動の対象になるかというと、動物園での人気と比例するという話を聞いたことがある。
 たとえば、カバなどは同じ絶滅危機種であるにもかかわらず、動物園では人気がないので、ゾウなどのように関心を集めないというのだ。
 ま、所詮そんなものだろう。

 ところで、今日読んだのは、フローベール『三つの物語』(岩波文庫)のなかの「まごころ」だった。
 ある田舎の家で奉公する女中さんの、愛と別れと喜びと悲しみの物語だ。
 とってつけたような説明だが、本当にこの通りの話なのだ。
 この主人公が、大切にしていたのが、鸚鵡だったのである。
 それで、つい、子どものころのことを思い出してしまった。

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