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2006.08.30

某テレビ番組

 依然、体調はよくないが、新書の原稿を進める。
 調子いいときに比べて仕事の効率は3分の1以下だ。
 しかし、そろそろしあげなければ。
 絶対おもしろい本にしあがるはずだ。

 某テレビ局「アン○○○○○」の番組スタッフから電話がある。
 以前の仕事仲間だ。
 メルマガを久しぶりに発行したので、私のことを思いだしたのだろう。
 番組のネタがなくて困っているのだという。
 このごろは、どこもそうなんだろうなあ。
 最近目についたネタをひとつ教えてあげた。
 役に立つといいけどね。

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2006.08.28

やりたいことは多けれど

 やるべきことはたくさんあるのに、体調がいまひとつで進まない。体がだるく、イスに座っているのもしんどい。
 原稿もアップしなければならないし、ボスに頼まれた企画書もあるし、メルマガも今月中に出さないと廃刊になってしまう。

 だけど、こういうときは、あせってはダメだ。できることから確実にアップしていく。それが重要だ。
 慌てる前に、どの仕事から片づけていけば効率的か冷静に分析する。
 緊急度からいうと、この原稿をはやくしあげることが必要だ。メルマガはまだ3日ある。企画書は、空いた時間で一気にしあげるのが効率的。

 うん、これでいい。
 というわけで、原稿いってみよう!
 まずは、『呂氏春秋』(明治書院)を読み込まなければならないな。
 さあ、レッツゴ!

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2006.08.27

百科事典の整理学

 天気のよくない日が続くので、体の調子がいまいちだ。
 ネット古書店に注文していた弥吉光長『百科事典の整理学』(竹内書店)が届く。
 1972年の発行だ。

 百科事典についての説明というより、百科事典をどう使うかという実用的な面を中心に書かれている。
 きのうコピーをとってきた『百科事典の歴史』(平凡社)のほうが詳しい。
 しかし、これで、日本で発行された百科事典にかんする本は、ほぼそろえたのではないだろうか。

 西洋中世の歴史もだいぶ頭に入ってきた。なぜ、暗黒の中世と呼ばれたのか。それはヨーロッパ激動の時代だったからなのだな。
 時代背景を見据えながら百科事典の歴史を見ると、なるほどと思うことがたくさんある。
 よし、そろそろエンジン全開にしよう。

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2006.08.26

オクラを収穫

 ベランダのオクラの実がひとつ大きくなっていたので収穫。花も三つ咲いていたから、もうすぐ実をつけるだろう。
 カボチャは、花は咲くのだが、実はならないようだ。やはりプランターではムリか。

 きのうは、西武新宿線の武蔵関駅まで行く。農文協図書館に行くためだ。
 この駅は、昔、妻と新居を探しに来たことがある。なつかしいなあ。

 農文協図書館は、駅から歩いて10分ほど。1階が倉庫になっているビルの3階に図書館があった。
 入るときには、スリッパに履き替える。
 受付の人に探している本のメモを見せると、すぐ取りに行ってくれた。
 『百科事典の歴史』(平凡社)。

 受け取ってみると、予想外に薄い冊子状の本だった。「非売品」となっている。ふつうの図書館や古書店にもないはずだ。
 閲覧席でざっと目を通す。
 西洋の百科事典の部分は必要なさそうだった。中国と日本の百科事典の部分だけ、コピーをとらせてもらった。
 しめて450円なり。
 おそらく、これで国内の百科事典にかんする資料はほぼ集まったはずだ。

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2006.08.25

空白期間の文書類

 いまごろになって、重要な資料が翻訳されていたのを知った。うかつだった。
 ネットで調べてみると、都内では、杉並区、豊島区、中野区の図書館に所蔵されていることがわかった。
 このなかでは、中野図書館がいちばん近い。

 地下鉄で中野まで行く。
 以前、中野図書館のカードはつくっていたはずだが、もう期限は切れているはずだ。
 係員の人が調べてくれると、記録だけはあったらしい。さっそく新しいカードをつくってもらう。

 探している本は閉架にあった。
 『中世思想原典集成』(平凡社)。上智大学中世思想研究所編。
 全20巻のシリーズ本だが、このなかから、5の「後期ラテン教父」、9の「サン=ヴィクトル学派」、13の「盛期
スコラ学」の3冊を借りる。

 これまで、西洋中世の思想的文書群は、ほとんど空白のまま紹介されてこなかった。それが、このシリーズでは部分訳とはいえ、重要文書の主要なものはほとんど紹介されている。
 平凡社はすごいシリーズを出すものだ。

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2006.08.24

夏の終わり

そろそろ夏も終わりの雰囲気だ。
私は、夏の暑さはわりと平気である。
仕事場では、いつも上半身裸。
クーラーはなし。扇風機で十分だ。
民俗学者の南方熊楠さんは、家族に洗濯の手間をかけさせまいと、夏はふんどし一丁だったそうだ。

ただし、打ち合わせなどで外に出るときがつらい。
靴を履いていると足に熱がこもって、暑さ倍増なのだ。
そこで、出かけるときはサンダルで行き、版元さんの近くに来たら、カバンに入れておいた靴と履き替える、という方法を使っている。

それはともかく、40年前に平凡社から出た『百科事典の歴史』という本を探している。
近くの図書館にはなし。ネットで古書店を検索しても見つからない。
やっと、農文協図書館というところにあるのがわかった。
一般人でも、登録すれば利用できるらしい。
場所はS武新宿線の沿線だ。これならわりと近い。
時間の空いたときに行ってみよう。

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2006.08.23

人間はどこまで耐えられるのか

 朝、ベランダの鉢植えに水をやっていると、プランターの横に、黒いつぶつぶが落ちていた。
 何だろうと思って、はたと気がついた。毛虫のフンである。
 オオバの葉をかきわけてみると、いたいた、まるまると太った尺取り虫が。
 さっそく取り除いて、台所用洗剤をかける。2、3秒でいちころだ。
 人間も台所用洗剤の海に落ちたらお陀仏なのだろうか?

 フランセス・アッシュクロフト『人間はどこまで耐えられるのか』(河出書房新社)。
 高山、深海、砂漠、極地、宇宙などで人間を襲う危険と、その対策。生理学者の計算上の人間の限界は、つねに冒険者たちによって裏切られてきた。
 意外と人間は強いのである。
 そして、また、非常にもろい存在でもある。

 けっこう煩瑣な解説部分は続くが、興味ある話題で、引っ張られる。
 深く潜水すると、歯の詰め物が「内側」に向かって破裂することがある、などおもしろい話が続々。
 生理学者たちは、人間の限界を知るために、自ら実験台になることも多かったという。
 しかし、危険なのがわかっているのに限界に挑戦する人々が、かくも多くいるのかと驚く。
 考えようによっては、そっちのほうがよほど不思議だ。

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2006.08.22

昔も今も庶民は珍しいもの好き

 いま書いている本で、この本だけは参考資料として欠かせなかった。
 西村三郎『文明のなかの博物学』(紀伊国屋書店)上下二巻。

 18世紀、ほとんど接点のなかった西欧と日本で、空前の博物ブームが起こる。
 人々は、珍奇なもの、希少なものを求めて、博物誌を買いあさり、物産会におしかけた。
 なぜ、東西の両極で、このような博物趣味が勃興したか。著者は縦横に推理を重ねていく。

 とくに、日本の博物学推進のひとつの核となったのは、朱子学であったという、意外な推論が提起される。
 いやあ、おもしろい。ほとんど一気に読んでしまった。

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2006.08.21

図書館の時代

 最近、また図書館を活用するようになってきた。ネット上でかんたんに蔵書の有無確認や予約ができるようになったせいでもある。
 探していた本が、意外にも図書館の閉架にあった。さっそく予約。

 区の中央図書館は歩いて5分のところにある。
 石見尚『図書館の時代』論創社。
 このところ、図書館の歴史を調べているので、この本は必読だった。洋の東西の図書館の歴史が概括的に述べられている。

 なかでも知りたかったのは、図書館では、どのような図書分類がなされてきたかということである。
 ゲスナー、ライプニッツ、ベーコン、あるいは菅原道真、藤原佐世などのテーマ別分類法に触れられていて、たいへん参考になった。
 十進法図書分類以前の分類法は、その時代の知的状況を如実にあらわしていて興味深い。

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2006.08.20

著者と読者とは巨大な深淵で分たれている

 私は、飲み屋に行ったとき、自分が著述業者であることを明かさないようにしている。
 以前、何度も不快な目にあったことがあるからだ。

 私がライターであることを知ると、たいていの人間は「どんなものを書いてるの」と聞いてくる。
 私が実用書だと答えるとほとんどが「なーんだ」といった顔をする。
 不快である。

 もっと不作法な人間は、新しい本ができたら見せてごらん、などと言ってきた。
 俺が見てやる、といった態度なのだ。
 それは話が逆だろう。自分で書いた文章を持ってきて、見てください、というのなら、面倒だけど見てやらないでもない。
 しかし、なんで、ほかの読者が金を出して買ってくれているものを、ただで見ていただかなければならないのだ。

 思うに、文章というのは、上手下手はあっても、誰でも書けるものなので、自分でも批評できるものと勘違いしやすいのではないだろうか。
 プロとアマチュアの区別もつかないような人間は、自分が一度もプロ意識をもって仕事をしたことがないのだろう。たかがしれている。

 ゲーテ『詩と真実』(岩波文庫)。
 ゲーテはこう書いている。
「私は、著者と読者とは巨大な深淵で分たれていることを、そして有難いことに、双方ともそれをまったく理解していないことを、あまりにもよく味わった。

 え、もしかして、私も、ゲーテ様と同じものを味わっているのだろうか。おそれ多いことだ。

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2006.08.18

未練も執着もない無碍(むがい)な境地

 以前は、私も、変わった岩石や貝殻などをコレクションしていた時期があった。
 しかし、ある体験がきっかけで、コレクションなぞ金輪際やめてしまった。

 その体験とは、愛媛県宇和島の多賀神社凸凹神堂に行ったことである。
 神堂と名は付いているが、実は博物館だ。古今東西のあらゆる性に関する民具、道具、絵画、彫刻などの「性文化財」が集められている。
 三階建ての建物のなかは、展示台、壁面、天上に至るまで、びっしりとそれらの展示物で埋め尽くされている。
 圧倒された。
 性の煩悩など吹き飛んでしまいそうだ。

 なんでも、ここの神主さんが、親子二代にわたって蒐集したものであるという。
 とても全部は展示しきれなくて、何日かごとに展示し直しているのだそうだ。
 そこらの「秘宝館」などとはまったくスケールが違う。
http://www1.quolia.com/dekoboko/
 間違いなく、世界一の性博物館である。

 ともかく、この寺(神社)に行ってから、ばからしくて、ケチなコレクションなどやめてしまった。
 コレクションするなら徹底的にやらねばならぬ。

 今日読んだのは、きのうに引き続き、淡島寒月『梵雲庵雑話』(岩波文庫)
 寒月は、玩具の蒐集もしていたという。
 だが、関東大震災で、せっかくの蒐集品がすべて焼けてしまった。
 負け惜しみではないだろうが、寒月は、それを惜しいとは思わなかったという。
「虚心坦懐、去るものを追わず、来るものは拒まずという、未練も執着もない無碍(むがい)な境地が私の心である」

 かっこいいねえ! 一度でいいから、こんな科白をはいてみたいものだ。

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2006.08.17

人の文は苦しみて以て成る

今日は軽い読み物がいいと考えて、淡島寒月『梵雲庵雑話』(岩波文庫)にした。
 寒月は明治期の文人で、趣味人で通っていたらしい。
 この本は、主に、江戸期や、明治初期の回想を中心に編まれている。

 日本で初めて郵便制度ができたころは、配達員が威張っていて、手紙を届けるときに、いちいち、「何のなにがしとは、その方どものことかっ!」と確認したそうだ。
 受け取る方は、「ははーっ」と押し頂く感じだったろう。
 昔の役人はいまより威張っていたのかも。

 私はといえば、こちらがおとなしくしていると、だんだんつけあがってくるヤツが何より嫌いである。
 いままで、何度か、その手の人間を怒鳴りつけたことがある。
 それまで、丁重な口をきいていた男が突然怒鳴りだすのだから、相手にはけっこう効果があるようだ。

 その一例。大江戸線○○駅の改札口にて。
「あの、この切符で都営線にも乗れるんでしょうか」
「……。これは営団線の切符でしょ」
「ということはこの切符じゃ乗れないんですか」
「……。都営線は都営線の切符でしょ」
 いちいち、「でしょ」というのがバカにしたいい方だった。
「でしょ、でしょって、俺に聞いてどうすんだよ! それがわからないから聞いてるんだよ。乗れるのか乗れないのかどっちなんだ。ちゃんと答えろ!」

 困ったことに、年をとるほど、こういうことが多くなってきた。

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2006.08.16

電車内でナイフをくれと叫ぶ男

きのう、山手線に乗っていたとき、車内で、「だれかナイフください!」「私、オカサン殺します!」と叫んでいる韓国人がいた。
 熱いなあ。
 こういうとき、私はわりとトラブルに巻き込まれるのだが、すぐ目的駅に着いたので、何事もなかった。

 ということで、話は変わるが、私は占いのたぐいはまったく信じない。
 毎年、なぜ、傲慢そうな顔をしたおばさんの占い本がよく売れるのか理解できない。
 しかし、そんな私でも、たったひとつだけ、少し信じている占いがある。
 何年か前、何の占いかは忘れたのだが、「暗殺される」という託宣がでたのだ。
 暗殺される! カッコいい。

 そもそも、ふつうの人が殺されるのは暗殺とは呼ばない。名あり、功ある人が、故あって殺されるのが暗殺だ。
 私も、いつかはそれほどの人物になれるのだろうか。
 という楽しみがあって、少し信じているのだ。

 今日読んだ本。矢野道雄『占星術師たちのインド』(中公新書)。
 タイトルを見てわかるように、インドの占星術に関する本だ。
 なかでちょっと面白かったのは、インドの大新聞では、日曜版の求人欄のほとんどが「求婚広告」であるということ。
 それから結婚条件で大きいのはホロスコープによる相性であるという。
 ところ変われば、ですね。

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2006.08.15

3000年前の密室殺人を解決せよ!

 今日は午前中に取材1本、夜は知人と会食と、一日中外に出ていることになりそうだ。

 というわけで、朝の読書はムリなので、最近読んだミステリーのなかで面白かった本でも取り上げよう。

 柄刀一(つかとう・はじめ)『3000年の密室』(光文社文庫)。
 3000年前の縄文人のミイラが密室状態の洞窟のなかで発見された。しかも、このミイラは他殺された形跡があった。
 密室状態の洞窟から犯人はどこに消えたのか。
 なんと、3000年前の密室殺人の謎解きがはじまる。

 意表を突く犯罪だが、最後に、思いもしなかった真実がわかる本格推理ものだ。
 謎解きと、縄文人ミイラの発見をめぐる現代のドタバタが絡ませてあって飽きさせない。
 この作者、なかなか筆力があるので、本格推理好きの方にはお勧めです。

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2006.08.14

音楽は百害あって一利なし?

 孫玄齢『中国の音楽世界』(岩波新書)は、手頃な中国音楽入門書だ。
 中国(周)では士大夫が修めなければならない修養として「六芸(礼・楽・射・書・御・数)」が定められていた。六つのなかのひとつ「楽」は、音楽のことである。
 ほぼ近い時期、「万物は数である」で有名なギリシアのピタゴラスは、学ぶべき学問として「数論・幾何学・音楽・天文学」の4つを掲げたのを思い出す。ここにも「音楽」が入っているのだ。
 東西ともに、必須教養として音楽をあげているのが面白い。

 音楽は、あるときには強力な武器となることもあろう。プロパガンダの道具として音楽は有効だ。
 20年くらい前の話だろうか。東南アジアのどこかの国で、音楽を禁止しようとした話を聞いた覚えがある。
 中国では、博愛主義で有名な墨子は、音楽反対論者だったという。音楽は人民の作業の負担になり、百害あって一利なしとしたのである。
 もちろん墨子は、大いなる勘違いをしていたのだろう。

 また、面白かったのは、中国の葬送行進曲が「君が代」のメロディーと似ているという話だった。確かに元気はつらつとした曲ではないからなあ。
 でも、「君が代」の代わりに新しい国歌をつくるのには反対。別に右翼的な観点ではなくて、おそらく代わりにつくられるであろう「戦後民主主義的」な恥ずかしい国歌が想像できてしまうからである。
 「平和を守りー、自由で明るいー……」
 ああ、考えただけでも鳥肌が立つ。こんな歌なら君が代のほうがまだましだ。

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2006.08.13

思考の達しうる限り

 岩波文庫は、名作の宝庫であるが、また、珍品の宝庫でもある。
 バァナァド・ショウ『思想の達し得る限り(メトセラ時代に帰れ)』も、そのひとつである。
 これは『人と超人』でも有名な、イギリス人劇作家が残した唯一のSF的劇作品だ。

 第一部のアダムとイブの話から、第五部の西暦31930年に至るまでの壮大な物語が展開される。
 収録されてはいないが、原作には、100頁にもわたる、進化論を中心に論じた前書きがついているという。

 筋書きを一言で説明するのはむずかしいが、永遠の命を約束されていたアダムとイブが、その永遠の寿命を放棄し、その子孫たちは、逆に、何百歳という長生き種族になっていく話だ。

 「人殺し」を発明したアダムとイブの子、カインは言う。
「私には、死が人生では或る役割を演じてゐるのだ、と囁く本能があるのです」

 死を意識しない人生など、そざかし無味乾燥な人生だろう。

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2006.08.12

心は巧みなる画師の如し

 これまで全集を買った作家は、泉鏡花、内田百間(ほんとは門構えに月)久生十蘭、夢野久作などがある。
 どれも、大学卒業後の無職時代(オイルショック後の就職難の時代)、バイトで稼いだ金をつぎ込んで買ったものだ。

 あと、もしこれから買うとしたら、幸田露伴の全集だ。
 露伴といえば、読まれざる名作「五重塔」が有名だが、そのほかの作品はあまり知名度が高いとはいいがたい。
 「五重塔」だって、ちゃんと読むと泣けますよう。物語の面白さを詰め込んだ作品だ。泣かしのツボが決まっている。

 鴎外、紅葉など同時期の作家に比べても、露伴の文章のうまさは光っている。それでいて、苦労しないで楽々書いたもののように読めるのが憎い。

 露伴『幻談・観画談』(岩波文庫)の「幻談」は、露伴最晩年の作品だが、名人芸の域に達している。
 海釣りで、土左衛門の手からいただいてしまった釣り竿をめぐるちょっと不思議な話なのだが、露伴の蘊蓄がさりげなくそしてぎっしりと詰め込まれている。

 単純なストーリーを話術だけで読み込ませてしまう手腕はさすがである。
 私なぞは、一生かかっても、この域にははるかに達することができそうもない。

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2006.08.11

英語教師が英語嫌いにした

 日本語は合理的な言語ではない。昔、英語の教師がよく言っていた言葉である。
 それでは、英語はそれほど、合理的なのか。日本語は仮名さえふれば、誰でも音読できる。しかし、たとえばaというアルファベットが何通りもの読み方をする英語では、一語一語発音を覚えなければ読むこともできない。
 どこが、合理的な言語であるのか。

 英語の教師は、多かれ少なかれ、皆この調子だった。日本語は合理的ではない。日本語は理論的ではない。
 言語である限り、非論理的な言語などない、とは、本多勝一もどこかに書いていた(思想的にはちょっと相いれない人だけど)。

 私は、英語の初学にして、教師に不信感をもち、英語嫌いになったのだった。
 もっとも、今は違う。英語サイトを読むためである。ざっとなら意味がわかるようになってきた。しゃべれなくても、読んで意味がわかればいいのだ。発音なんかどうでもいい。

 日本は、単一言語で成り立つ、世界でもまれな国だ。世界では、複数言語をもつ国のほうが圧倒的に多い。
 そのため、国内では、日本語が圧倒的にメジャーであるが、世界のなかでは逆に、日本語は圧倒的にマイナーである、という奇妙な事態が起こっている。

 本日読んだのは山田俊雄『日本語と辞書』(中公新書)。
 字書(辞書とはちょっと違う)は平安時代から存在した。意外な感じだが、明治以前にも、さまざまな字書、辞書が盛んにつくられていたのである。

 辞書では、その語の出典を示す場合がある。たとえば、(万葉集巻○○)といった具合である。万葉集の○○巻に、その語が使われているという意味だ。
 新しくつくる辞書では、このような出典は既成の辞書から引き写す(パクリ?)場合が多いのだという。
 そのため、もし、前の辞書の出典が誤っていた場合、その誤りがそのまま新しい辞書に引き写されることがある。
 なんと、江戸時代につくられた辞書の誤りが、最近の辞書にまで伝わっていることがあるという。

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2006.08.10

見据えた眼にうつるのがまぎれもなく自分自身である……

 ドッペルゲンガーとは自分の目の前に、もう一人の自分を見てしまう不可思議現象のことである。
 ドッペルゲンガーのドッペルとは、英語ではダブルで、二重という意味だという。

 ドイツ人は、このドッペルゲンガーというテーマがことのほか好きなようで、ゲーテも『詩と真実』のなかで書いている。
 そして、今日読んだホフマンスタール『チャンドス卿の手紙』(岩波文庫)中の「騎兵物語」にも、ドッペルゲンガーが描かれている。

 クローニングの技術が進めば、自分とそっくりの人間をつくることはできるだろうが、それは外見だけのことで、魂まで同じにはならない。

 そもそも、私は、自分が映ったビデオを見るだけでも恥ずかしく、もう一人の自分をつくるなんて思いも及ばない。
 自分のビデオを平気で何度も見る人の気持ちは、私にはまったく不可解なのである。

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2006.08.08

あんたたちはみんな気の毒に、牢屋へ入っているようなもんね

 少し若いときの話になるが、ある声優養成所に通っていたことがあった。
 これは私の人生でもかなり希有な体験だった。養成所の授業がではない。生徒30人のうち、男は私を含めて2人しかいなかったのだ。

 私はずっと男女共学校だったから、クラスに女生徒がいるのには慣れている。
 しかし、これほど女生徒の割合が多いのは初めてだった。しかも、当時すでに30間近だった私よりもずっと若い女性ばかりだった。

 こんなとき男はどうするだろう。
 はじめは男同士こそこそしていたが、やがて口には出さないが互いにライバル視するようになっていった。
 このようなところで、男は何を張り合おうとするか。強さか、リーダーシップか。
 それも少しはあるが、第一は、彼女たちをいかに笑わせることができるかだ。

 おそらく、反対に紅一点状態の場合は、女性同士が冗談で張り合う、というようなことは、あまりないのではないか。
 男の場合は、いとも簡単にピエロになってしまうのである。
 まあ、男なんて、笑っていただいて、なんぼのもんだ。

 さて、今日は『ゴーリキー短編集』のうち、残りの4作を読んだ。そのうちの「二十六人の男と一人の少女」は、地下室のパン焼き場で働く男たちと、彼らのアイドルである一人の娘の話だ。
 男たちの幻想は、最後になってうち砕かれる。
「チョッ、畜生め……いけすかない奴ばっかりだわ……」
 という少女の一言とともに。

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