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2006.08.11

英語教師が英語嫌いにした

 日本語は合理的な言語ではない。昔、英語の教師がよく言っていた言葉である。
 それでは、英語はそれほど、合理的なのか。日本語は仮名さえふれば、誰でも音読できる。しかし、たとえばaというアルファベットが何通りもの読み方をする英語では、一語一語発音を覚えなければ読むこともできない。
 どこが、合理的な言語であるのか。

 英語の教師は、多かれ少なかれ、皆この調子だった。日本語は合理的ではない。日本語は理論的ではない。
 言語である限り、非論理的な言語などない、とは、本多勝一もどこかに書いていた(思想的にはちょっと相いれない人だけど)。

 私は、英語の初学にして、教師に不信感をもち、英語嫌いになったのだった。
 もっとも、今は違う。英語サイトを読むためである。ざっとなら意味がわかるようになってきた。しゃべれなくても、読んで意味がわかればいいのだ。発音なんかどうでもいい。

 日本は、単一言語で成り立つ、世界でもまれな国だ。世界では、複数言語をもつ国のほうが圧倒的に多い。
 そのため、国内では、日本語が圧倒的にメジャーであるが、世界のなかでは逆に、日本語は圧倒的にマイナーである、という奇妙な事態が起こっている。

 本日読んだのは山田俊雄『日本語と辞書』(中公新書)。
 字書(辞書とはちょっと違う)は平安時代から存在した。意外な感じだが、明治以前にも、さまざまな字書、辞書が盛んにつくられていたのである。

 辞書では、その語の出典を示す場合がある。たとえば、(万葉集巻○○)といった具合である。万葉集の○○巻に、その語が使われているという意味だ。
 新しくつくる辞書では、このような出典は既成の辞書から引き写す(パクリ?)場合が多いのだという。
 そのため、もし、前の辞書の出典が誤っていた場合、その誤りがそのまま新しい辞書に引き写されることがある。
 なんと、江戸時代につくられた辞書の誤りが、最近の辞書にまで伝わっていることがあるという。

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